Up 「国立大学法人」が邪道が生む構造 作成: 2006-04-01
更新: 2006-04-01


    企業の成長は,社会的ニーズへの対応に努める活動の所産である。
    社会的ニーズが確固として確信の持てるものであるとき,企業は王道・本筋を行き,その成長は自ずと健全なものになる。

      国立大学の成長は,近代国家建設のニーズとともにあった。したがって,国立大学は,王道・本筋を進んできて,比較的オーソドックス (正当) な構造づくりがなされた。(ただし,構造とその内容になる教育・研究の質は別問題。)

    この企業の成長が社会のニーズを超えてしまうとき,「リストラ」が企業の課題になってくる。

      少子化は,大学の過剰供給の問題になる。


    「リストラ」の課題にはリストラ (規模縮小) で応じるのが本筋である。
    しかし,一般の例が示すところでは,組織はリストラを自ら断行できない。リストラではなく,組織の現規模を保持したまま生き残ることをなんとか考えようとする。

    社会的ニーズに見合わない過剰規模を保たそうとする場合,策として立つものは本来つぎの2つ:

    1. マーケットのシェアを拡大する(他の同種企業のシェアを奪う)
    2. 組織の過剰部分を,新しい分野に進出させる

    ともに容易ではないが,「新しい分野に進出」はすこぶる困難。実際,新しい分野とは自分が<素人>になる分野。(そこで,企業ではこの場合,M&A を活用する。)


    「組織の現規模を保持したまま生き残る」は真にインテリジェンスを要する作業だ。浅知恵の担当を許してしまえば,たいてい本業を台無しにする方向に向かう。

      「リストラ」はネガティブな課題ではなく,組織運用においてはあたりまえの課題である。 浅知恵は,これを「生き残り」のニュアンスで受け取って,水の中で溺れると同じ様でバタバタし出す。本人はバタバタすることで一生懸命のつもりなのだが,頭の中は空っぽ (思考停止)。


    国立大学のリストラの課題は,「国立大学法人」という粉飾を授かってからは,すっかり本義を隠蔽され,おかしな形に歪められてしまった。
    浅知恵は,従来型を捨て新しいものをもってくれば,それで仕事をしたような気になっている。──依然として国の庇護下にあるので,マーケット=社会的ニーズを閑却できている。

      確認しておくが,従来型 (既存のもの) はそれ自体では一つの歴史の到達点である。この歴史を形成してきた<智>は,実際にはひじょうに良質なものであって,そこぞのポッと出の浅知恵に捨て去られてしまうようなものではない。 しかし現実には,これまで築いてきたものがいとも簡単に壊されている。

      浅知恵の「浅い」の意味は,一つの物事に対したときに,その物事の奥行き/深さを見ることができない──つまり,その物事が位置づく共時的・通時的な関係をあわせて見ることができない(というよりも,そのようなものがあること自体を知らない)──ということだ。

    北海道教育大学も,「組織の現規模を保持したまま生き残る」に進み,そしてそれのお定まりの陥穽にはまっている。

      小さいながら個々に「教員養成大学」の形を保っていた5分校は,現在どの一つも「教員養成大学」の体をなしていない。 「組織の現規模を保持したまま生き残る」ための「特色化」は,どの一個も「教員養成大学」として完結させないためにそれぞれが欠損をつくる,といういびつな課程づくりに進んだ。


    「リストラ」の課題に対し「組織の現規模を保持したまま生き残る」という無理なスタンスで臨むとき,邪道の道が開かれる。そしてつぎにこの道に実際に踏み出せるために,集団的思考停止 (浅知恵) が形作られる。これが,「国立大学法人が邪道が生む」構造だ。

      「浅知恵」のことばは,レトリックとして使っているのではない──誇張ではない。 実際,従来の課程の枠組みを壊して別のものに変えたときの各要目において,それが大学にふさわしい研究のスタンスで考究され,検証・議論にかけられたことは,一度もない。