Up 土壌:デモクラシーの未熟 作成: 2005-12-12
更新: 2006-08-24


    「デモクラシー」とは,<個の多様性>,<多様な個の一つとしての自分>をとる立場,ないしその立場に就く行動様式・規範を意味する。 そして,これの反意語は,「独善」。

      註 : 「民主主義」の訳はミス・リーディング (miss-leading) なので,わたしは一貫して「デモクラシー」と言う。

    <個の多様性>の立場を最もスリムに言い表せば,つぎのようになる:

    • (「殺さない」論理)
      自分の理解可能なものに付くとき,同時に自分の理解不能なものを (潜在的に) 殺している。
    • (「生きる」論理)
      知恵は,多様性より生ずる。


    デモクラシーの国では,教育は「デモクラシー社会の成員の育成」の意味を持つ。この意味から,「個の多様性」は教育の基本原理とされ,教育者の常識とされる。いわんや,教員養成大学/学部の教員。

    ところが,現状は,「個の多様性」の原理を実践に敷衍できないというもの。 特に,個々の事情の多様性を洞察できない/洞察しようとしない/洞察すべきということを知らない。

      例 : 本館工事計画は,「狭い了見 (独善)」の自覚をもたない作業班の狭い了見 (独善) でつくられ,「狭い了見 (独善)」の自覚をもたない教員から認められた。
      ──本館工事で起こることを,自分の了見を越えて見ることができない/見ようとしない。 本館工事で起こることが個々に違うことを,理解できない/理解しようとしない。

    要するに,「個の多様性」が耳で停まって,身についていないのだ。<デモクラシーの未熟>を曝すのみ。

      註 : ちなみに,辺境の地でサヨクが政権やリーダシップを獲るとき,たいてい専制独裁をやってしまうのは,彼らの<デモクラシー不能>による。


    「個の多様性」の上に政治を立たせることは,簡単ではない。いろいろ工夫が要る。 このようなものの一つに,デモクラシーの議事法がある。

    大学においては,知の府として当然,議事はデモクラシーの手法で行われている──と,一般に思われているかも知れない。
    しかし,本校/本学では,セクト主義的な手法がいまだにものを言う。


    デモクラシーの議事法は,つぎの進行 (proceeding) を基本骨格とする:



    しかし北海道教育大学岩見沢校では,<動議─採決>の試みは,つぎの形で退けられる:

    • 一人が,「採決は仲間割れを明確にするのでダメ」の趣旨の発言をする。
    • 本校副学長が,議長の立場で,「採決はしたくない」と言う。


    では,岩見沢校の場合,組織意思決定はどんな形で
      1. 決定の方向が示され,そして
      2. そこに衆議が誘導されていく
    のかというと,それは<雰囲気形成>である。
    誘導の役回りを自負する者 (あるいは,根回しで役割を請け負った者) が,その役を演じる。周りもこれを察知して,寛容的に振る舞う。

      註:「根回し─演技─寛容」が,セクト主義的と呼ばれる組織意思形成の手法。


    組織の意思決定に任せると執行部の方針・計画が通らないリスクがある場合は,「報告」の形で降ろして,問答無用にする。 併せて,内からの応援者を組織する。
    法人化以降は,これが常套になった。

    しかし,「報告」の手法は,組織に無力感・閉塞感,相互不信,執行部不信を醸成する。
    これは「組織破壊」である。