Up 合理的議論の未熟 作成: 2005-12-13
更新: 2006-08-24


    大学の教員ならば,自分が合理的なものの考え方をする者であることを当然と考え,疑いの目を向けるということさえもないだろう。
    結論から言うと,これは自惚れ (うぬぼれ) ということになる。

    わたしは,専門の数学教育やコンピュータ・プログラム,情報機器の指導において,ほとんどを論理の指導に費やしていることになる。そして,この経験から,論理的な思考法がいかに人にとって困難であり,訓練を要するものであるかということを,よく知っている。

    実際,論理的な思考法は,人の生理にとって自然なものではない。形式の学である論理学も,よく形式化されたのは歴史的につい最近。
    実際,ひとは手探りによって世界構築する。自分も客体化される広い視野で世界を見るという視点は生物的でないので,これは高度な技術の進歩をまってやっと得られる。

    たとえば,地図を読むとか,立体の表現に平行線処理を用いるとかは,あたりまえのことのように思われるかも知れないが,実際は,これに馴染みのない文化では高い能力と知識をもつ人もこれをできない。われわれがなぜこれをできるかと言うと,明示的・非明示的にこれを学習してきたからだ。

    自分自身を振り返ってみても,わたしの「意図的な論理的思考力自己育成」の経験は,けっこう長く深い。わたしは,これを専門数学,数学教育,コンピュータ・プログラミング,ネットワーク構築等を通じて,行った。これは学習ではなく,<修行>である。
    だからわたしは,学生に論理的な間違いを指摘しても学生には「何が間違いなのかわからない」のが,よくわかる。まして,論理的な考え方を強調したり,方法を一般的に示すことに,はかばかしい効果のないこともよくわかる。

    「どの専門分野も論理的思考力の鍛錬においては同じだ」と考えてはならない。そのように考えるのは,形式論理の世界を直に見ていないからだ。
    わたしは,数学教育を基に学際的な探求にいろいろ手を出してきたが,(複雑系-対-単純系,人文系-対-自然系,暗黙的-対-明示的,経験的-対-実証的,といった分野的違いの考慮をいれても) やはり論理の処し方には,そうとうな違いがある。

    ただし,形式論理で修行を積んだから論理的な考え方を実践できるかといういうと,そうはならない。 素材観,状況観,世界観のその時々·場合場合の修行,そして実践の基礎スキルの修行が,並行して必要になる。要は,「形式と内容の両方がマッチしてはじめて,論理的な考え方を実践できる」というわけだ。

    ちなみに,<現時点での自分の論理的思考力の程度>を計る簡単な方法がある:

      コンピュータが苦手 = 論理的思考が苦手

        注意  (1)「嫌い」は「苦手」とは別。
        (2)  論理的思考力は訓練のたまもの。

      コンピュータの苦手な人をばかにしたり嫌みで言っているのではない。実際,コンピュータは徹頭徹尾論理マシン。コンピュータにアプローチするとは論理にアプローチすること。コンピュータを制御するとは論理を制御すること。コンピュータを勉強するとは論理を勉強すること。よって,コンピュータが苦手とは論理的思考が苦手ということ。(例:コンピュータのトラブルは,(1) 論理的所与としてのコンピュータを理解し (2) 解決を推論する,という形でのみ解決される。)


    合理的議論は,論理的思考力を必要条件とする。特に,生まれながらにだれもが合理的議論をできるわけではない。

      注意: 合理的議論に参画する資格問題を言っているのではなく,自分の論理的思考力の程度に自覚を持ち,論理的思考力を高め,合理的議論に努める精進が,各自必要だということ。

    「合理的議論」の主な要素は:
ベース 人間性 知的正直/潔癖
相互尊重
能力 論理的に考え,構成し,発表する力
行為 主題/論点を構造化して示す 主題/論点が布置されるグランド・ビュー
主題/論点の構造と内容
議論に必要な資料の用意 使いやすい形,パラフレーズの工夫
必要最
<適切な論理運用>として,
議論を行う
進捗/プロセスを見やすい形に示す

    ここで論点にしたのは,つぎのこと:

      国立大学の長い安定期の中で,教員は合理的議論の経験値を自ら高める機会に出会わなかった。そして法人化後,合理的議論が本格的に必要になったが,いままでのスタイルを続けている。

    しかし「合理的議論の未熟」の理由には,もう一つ大きなものとして,つぎのことがある: