Up 「生涯学習教育」 作成: 2006-08-23
更新: 2006-08-23


    「生涯学習教育」は,軽い了見から出てきた金策ならば,失敗する。

    例えば,「ひまと金を持て余したリタイア世代に対する教養講座」程度の発想による公開講座や「授業公開講座」は,受講者を呼ばない/ペイしない。
    この発想は,そもそも傲慢であり,社会をなめている。 大学の授業が教養のメディアとして今日どれほどのものかというと,公開講座や「授業公開講座」を用いるよりは本を読んだりテレビの教養番組等を視たり習い事をする方を選ぶというものだ。

      授業と書籍の比較において授業のライブ性を見ようとしても,それはたいしたものではない。 授業/学習とは,本来地味なものだ。授業は,「一時一時をおもしろく」でつくられるもの (エンタテインメント) ではない。
      しかも,授業は,本当に理解しようとするときのメディアでもない。授業は,理解の作業に向かわせるきっかけであり,ガイダンスである。


    「生涯学習教育」は,「社会人になってからの正規入学」の常態化というものでなければ,「キャリアアップ/リカーレントの意味が明確なコース」という形でしか成功しない。 そして,キャリアアップ/リカーレントを守備する教育組織は,半端なものではあり得ない。中途半端はゼロに等しい。

      アメリカの大学の "vocational course" は,学部規模である。学部くらいの規模でなければ,「生涯学習教育」の趣でキャリアアップ/リカーレントを守備するコースにはならない。


    法人化以降の国立大学で喧しい「生涯学習教育」は,「生涯学習教育」ではない。 生涯学習教育になっていないものに「生涯学習教育」の名が冠せられるのは,傲慢であり社会をなめているからだ。あるいは,「生涯学習教育」の意味をわかっていないからだ。