Up | 大学論の閑却──「大学」知らず | 作成: 2006-08-13 更新: 2006-08-13 |
したがって,本来必要なリストラを拒んだり,主旨をねじ曲げたりすると,大学は破滅の方向に向かう。 リストラを正しく行えるためには,リストラしようとする対象を正しく理解しなければならない。 しかし,「国立大学のリストラ」が政策にのぼってから「法人化」へと進む間,「大学」が何であるかについてはついぞまともに論じられることがなかった。そして,「大学」知らずの態で,施策が進行した。 この「大学論の閑却」には,2つの理由がある: A.「大学」は,理解することが難しい
B.「大学」を理解するという概念が,当事者にない
「大学とは何か?」の問いが意表外のものになるのは,「国立大学のリストラ」の政策に係わった者においても同じ。「大学」を理解するという概念がそもそも持たれていないので,「大学」を理解することから始めるということも起こらない。 大学論を閑却した法人化の政策は,
しかも法人化に向かう大学の変化は良いものである。」 大学は複雑系であるので,大学論においてもいろいろな切り口を立てることになる。 以下,例として,つぎの切り口を考えてみよう:
「国立大学の独り立ち化=民営化」の立場 「国立大学の独り立ち化=民営化」は,反照的に,「国はなぜこれまで大学に投資してきたのか?」という問いを浮かび上がらせる。 ──それは,保護のためか? 本来財政的に独り立ちできない/独り立ちに向かわせてはならないものだからか? それとも単に,行政が大学にごまかされてきたのか? 財政的に独り立ちできない/独り立ちに向かわせてはならないものは,現にいろいろある。 企業の開発部は,そのようなものの一つ。独り立ちに向かわせるならば,それは食い扶持を探して,別のことをやり出す。 国立大学も,国にとってそのようなものの一つ。 国家は,未来創造の基本駆動装置として,あわせて保険として,高い水準の「世間離れ」(いわば「梁山泊」) を囲っておく必要がある。これが国立大学。
「象牙の塔」は大学/大学人の世間離れを批判/批難するのに用いられることばだが,国が大学に投資してきたものはこの「世間離れ」であるということが,一般に理解されていない。 大学が民営化され,世間に付いたものになれば,確かに投資する意味がなくなる。あわせて,それはもはや「大学」ではない。
「大学」とは,法が規定する組織/機関である以前に,「魂 (soul)」である。よって,ちまたの大学には,大学でない大学もあり得る。 立派な建物をつくり,教員を集め,大学の免許をもらい,そして生徒を集めても,大学にはならない。 「入魂」が要る。 日本とヨーロッパの大学の伝統の違い・格の違いがよく論じられるが,そこでは「大学の魂」を問題にしていることになる。 |