Up 本質論の忌避 作成: 2006-07-03
更新: 2006-07-03


    ひとは理性を怠惰にすると,低い視点で物事に直接反応するような行動をするようになる。 また,短い時間スパンでの時機·時限をすごく重要なもののように思い込むと,これまた「低い視点で物事に直接反応する」行動様態に陥る。

    このような場では,本質論は疎まれる。閑人の世間知らずの論として扱われる。


    企業活動や日常生活は,時機·時限の強迫観念に翻弄され,汲々とする。
    このような状況では組織の文化や強さが生まれない。
    そこで,組織は (誰に指導されるともなく,生存の本能に導かれているかのように──組織は生き物である!) 本質論を担保するような場や個体の醸成を一方で行う。
    国単位では,大学がこのような場の一つ。

      実際,学問の内容は,「見えないもの (本質) を見る」いろいろな眼である。<見えないもの>とは,形/構造。学問をするとは,このような眼を自分のものにしていくこと。(「見えないものを見る」わけだから,それは簡単ではなく,修行を要する。)


    ところが,法人化になって,大学は「時機·時限の強迫観念に翻弄され,汲々する」者の仲間に加わった。
    本質的にものごとを考えることを生業・役割にしていた大学人が,「低い視点で物事に直接反応するような行動」をする者に変わった。 長い時間のスパンで「大学」を考える者は,すでにいない。
    横並びの目線で,法人化のキーワードに飛びつく (「現在12の大学がこれを実施してている (だから本学も‥‥)」)。その各キーワードに対し,本質論の立場から「なに・なぜ」を発言する者はいない。

    本質的にものごとを考えることを生業・役割にする大学人にして,このあり様である。
    翻って,人間の愚行が歴史で繰り返されるのも,さもありなんと納得できる。

    教訓: 人は,知性・理性を自ら簡単に眠らせることができる。