Up パブリックコメントの恣意的運用の問題性 作成: 2006-05-13
更新: 2006-05-13


    パブリックコメントは,現在,行政手続法 (第6章 意見公募手続等) によって,国および地方の行政機関においては制度化されている。すなわち,行政機関が制度・規則を設定/変更しようとする際には,パブリックコメントの機会を設けねばならない。

    北海道教育大学が今回のようにパブリックコメントを実施するのは,それを事実上の制度として扱うことを自ら任じているためなのか,世の流れに一応従っておこうとしているためのか,その他なのか,不明である。
    ただし,つぎの例は,パブリックコメントの運用が少なくとも未だ「恣意的」のレベルにあることを示している:

      学長選考に関する函館校教授会決議 (2005-08-19) から:
      学長選考規則第5条第2項は,「意向投票なしによる再々任」という全学的に論議を呼ぶ重大事項を含むにもかかわらず,提案者及び提案理由の公表もなく,また大学構成員へのパブリックコメントの求めはもちろん,教授会構成員の代表による審議機関である教育研究評議会での議論もなしに,3月24日の学長選考会議で自己完結的に決定されました。このことは,国立大学法人法及び附帯決議の主旨に大きく抵触するものではないでしょうか。


    恣意的運用は問題である。実際,恣意的運用は,だいたいがモラル・ハザードを招く。
    都合のよい運用が習い性になるので,パブリックコメントにかける案もいい加減になる (クオリティの低いものになる)。

    いちばん質(たち)の悪いのが,「みんなに了承された」という雰囲気作りのものにパブリックコメントがなってしまう場合である。これは,真剣に警戒しなければならない。──実際,つぎのようなしくみにより,「みんなに了承された」が容易にできてしまう:

    1. 意見を出す者は (おそらく) ほとんどいない。──実際,パブリックコメントは,たいていの者が (いままでの経験から) 信用していない。「やることになっているからやっているのだろう」「どうせアリバイづくりだろう」みたいな受け取りが一般的になっている。それに,パブリックコメントを出すのは,やはり<厚顔無恥>が必要。よって,応募者はほとんどいなくなる。

    2. 意見の扱いに透明性がない (意見は秘密主義で扱われる)。何がどうなっているのか,一般教職員には見えない仕組み。

    3. 執行側は,後から出てきた批判に対して「何であのとき意見を出さなかったんだ」と応じることができる。(よくやられる手だ!)

      ( 知的正直)