Up パブリックコメントの執行と組織の理知 作成: 2006-05-14
更新: 2006-05-14


    パブリックコメントを募集の『北海道教育大学中期財政指針(案) ─入るを量りて出ずるを制す─』を見て先ず思うのは,これがほんとうに本学の教職員のする仕事だろうかということ。(「パブリックコメントの落とし穴」)

    財務担当事務職員は,この分野の専門だ。
    教育研究評議員メンバーの教員は,研究者 (=科学者) として,明証性・計算可能性の科学方法論を体質としてもっている。実際,学生の研究指導では,論文の不備を明証性・計算可能性の立場から的確に批判・指導しているだろう。
    したがって,彼らの見識・知力が普通に発露すれば,このような案になるはずがない。──何かがおかしいのだ。


    全学の会議に関して「なんとなく異議を述べる雰囲気でない」ということを (教授会報告でも) よく聞く。これはわたし自身もよく経験することで,異議を出すときはそうとう無理/我慢をしてやることになる。

    自分の場合を敷衍して推測すると,会議全般に「中央指導」の幻想がとりつくようになっているようだ。
    逆らえない「中央指導」を意識して,出席者が自己抑制する。「自分の与り知らない具合にこの会議は企てられいるのだろう」と個々が勝手に思い,勝手に自分を独りにする。こういう疎外感を抱いた個が会議を構成する。委員長/議長自身そうなのかも知れない。
    こうして,会議は<知力の麻痺>で支配される。そして,(大学人の知能を念頭に措くならば) 常識では考えられない態で,珍妙/低劣な案が通過し,珍妙/低劣な結論がつくられる。


    本学の構成員は,この状況を,これに相応しい程度に深刻に──すなわち,そうとう深刻に──考えた方がよい。
    閉塞感から忌避に進んだり,あるいは「雰囲気に棹さす」をやるのは,かえって精神を疲労させる。 これはだれからも賛同してもらえると思うが,自分を偽って珍妙/低劣な案を通す張本人の一人におさまることが,いちばん精神的に参る。自尊心が崩れ,自我も保てなくなるからだ。

    自分の本来の知力に立ち返り,正直に,力の存分をやるのが,精神にはいちばんよい。自分の納得のいくことをきちんと行うよう努めれば,元気も出てくる。組織のためにもこれがいちばん。


    無気力,知的不正直は,それを見せられる者の精神に伝染する。 パブリックコメントの執行サイドには,ほんとうに真剣に<組織の理知>に責任を感じグレードの高い案の提示に努めることを,願う。