Up 大学ホームページの歴史 (省察) 作成: 2006-04-04
更新: 2006-04-04


    今日,大学ホームページは「公文書」と見られるようになった。公文書は事務の扱いなので,大学ホームページは事務扱いになる。この先に展望されるものは,大学ホームページが「ウェブページ化された事務文書」のこととして大学執行部/事務局の統制下におかれることである。
    今月1日から施行された「国立大学法人北海道教育大学ホームページ管理運用に関する要項」も,「執行部/事務局による統制」を明確に規定するものになった。

    大学のホームページ作成・管理に関わってきたことのない向きには,わたしがここで指摘する「ホームページの執行部/事務局統制」の意味するところがよくわからないと思う。そこで,大学におけるホームページというメディアが何であったのか/何であり得るのかを理解するために,大学ホームページの歴史をここで簡単に振り返ってみるとしよう。


    北海道教育大学に LAN (インターネット) が導入されたのは,1994年度末 (1995年3月) である。そして 1995年の終わり頃には,岩見沢校のホームページがはやくも立ち上がった。

    岩見沢校ホームページは,大学ホームページをつくるという目的でつくられたのではない。 「ホームページ」という当時新しい技術の活用を研究するというスタンスで,一部教員の間でホームページが試作された。そして,各研究ページへの「ポータル」の意味合いで,大学ホームページが形づくられていった。ただし,外に見せることになるものなので,一通りの内容は揃えられた。
    研究の主題は,今日あたりまえになった,ウェブデザイン,ウェブ・グループワーキング,ウェブをベースとする遠隔授業,教務データベースといったものである。またこの過程でウェブコンテンツが蓄積されていった。


    大学ホームページは「篤志」が作るものであったので,ある部分は非常に充実している一方で,あるところはまったくスカスカといった,斑 (むら) のあるものだった。

    わが国のインターネットは主に大学(それも国立大学と主要私大)から始まり,そしてしばらくの間「大学が主」の状態が続いたが,1990年代の終わりの方になってから企業のホームページが急速に増え始め,またホームページの企業戦略的な意味が話題にのぼるようになってきた。そして大学ホームページが学校の表看板/玄関として意識されてくるようになる。
    こうして,ホームページの管理運用を公式にしようという第一次ムーブメントが起こる。

    このムーブメントで,「篤志」が引退することになるわけだが,管理運用主体を定めても,管理運用がコンテンツを生むわけではない。結局,「だれが関わりや関心をもつわけでもない大学ホームページ」の時代になる。かつての「篤志」がたまに助っ人で現れ,細々つなぐという状態だ。──おそらく,この時代に,ホームページの質において私大が国立大学を凌駕・圧倒するようになる。

    そして,今日の大学ホームページ管理運用の第二次ムーブメントとなる。目指すのは,大学ホームページの執行部/事務局による管理統制。
    このムーブメントは,(第一次のものとは違って) 確かである。というのも,ウェブ制作・ウェブデザインの業界ができあがったことが,このムーブメントを可能にしているからだ。


    この間,個人の情報メディアとしてのウェブも,順調に成長してきた。ウェブページ制作の技術をリテラシーとする個人の数も増え,特に最近では,ブログが個人のウェブに対する敷居の高さを一挙に低めた。
    大学の中でも,ウェブを教育・研究・情報交換のメディアとして活用する者が増えてきた。かつての「篤志」も,ウェブの舞台から退いたのではなく,個人のメディアとしてのウェブに帰ったに過ぎない。

    さて,この個人コンテンツが,執行部/事務局による大学ホームページの管理統制で問題にされてくる。
    実際,大学ホームページの管理統制は,個人コンテンツの管理統制に転じる傾向がある。 いまは,この先に<統制-対-自由>のバトル (ウェブページという新しいメディアをめぐるものとして,大学人の未体験ゾーン) を展望している局面だ。
    これについては,ページを改めて論ずるとしよう。