Up 言論統制に対する不感症の構造 作成: 2006-04-04
更新: 2006-04-04


    大学は,「言論の自由」ということについて敏感な場所と世間では思われているかも知らないが,存外そうではない。
    「言論の自由」の問題に疎い (切迫感のない) 世代が増えているし,伝統的なサヨク的風土もわざわいしている。
    ここでは,後者について簡単に言及しておく。


    自由主義者は,「言論の自由」をつぎの意味合いで問題にする:
「個の多様性の保証・解発・活性化 → 組織の発展」
    一方,サヨク的な「言論の自由」は,
「自分たちの正しい言論は,つねに邪悪な権力によって
 抹殺されようとしている」
「正しい言論を抹殺させない闘いとしての,言論の自由の闘い」
    のようになる。言論に「正しい」があるわけだ。
    そこで,自分たちが権力をとれば,この「正しい」言論が遍く。併せて,「正しくない」言論を抹殺することが自分たちの崇高な使命になる。──こうして,サヨク的正義は独裁に通じる。(独裁はサヨク的正義の論理的含意!)


    こういうわけで,サヨク的な風土では,つねに「自分は別」の意識がある。
    権力につけば,自分の「正しい」言論とは異なる「正しくない」言論に統制をかけていく。
    独善が当人には「独善」と意識されないので,ひじょうにやっかいなのだ。