Up | 要 旨 | 作成: 2006-08-10 更新: 2006-08-10 |
そしてこの点取り主義で,大学は自らを傷つけ,破壊していく。
文科省 :「国立大学法人・大学共同利用機関法人の改革推進状況 (概要)」は,一昔前に崩壊した共産主義国家の計画経済の成果賞揚・革命発揚を見るようで,気持ちが悪い。 この不気味さが,作業の当事者 (評価委員会) にはわからなくなっている。 (翻って,大学もずいぶんなめられたものだ。) 「点数かせぎ」が大学破壊になるのはなぜかと言うと,「点数かせぎ」の方向,すなわち評価委員会/文科省に褒められる方向,すなわち評価委員会/文科省が付いているある一つの大学観が,既に大学破壊の方向であるからだ。 教育を専門としている者には,評価委員会/文科省が付く「よい大学」観は,よく知られたものである。「歴史的な振り子運動のどのあたりのものであるか」という形で,それをわかっている。すなわち,
どのような被害を残し, (その時を生かされた者にとっては「取り返しのつかない被害」) そして,どのような教育論にとって替わられるか ということをわかっている。「ああまたか!」というわけだ。 評価委員会/文科省は,大学については素人である。特に,教育・研究の本質を深く論考したり,長いスパンで大学の計を考えたりをできるための素養も経験ももっていない。 彼らは,その時流行(はやり) の教育論と聞き覚えの知識とで,「よい大学」観をつくり,大学に降ろしてくる。 まことに傲慢な構図だが,わたしたちは何がこの傲慢の理由なのかを考える必要がある。 単に彼らだけの傲慢・暴走であるなら,大学がこれを許さなかったらよいだけのこと。 素人は自分が素人であることに気づかない。それをスジ論・本質論で以てきちんと教えてやるのが,プロだ。 しかし,実際はどうかというと,評価委員会/文科省が付く「よい大学」観の形成には,大学の人間が加担している。 また,この「よい大学」観をほんとうによいと考えて,中期計画・中期目標の達成にがんばる大学人もいる。 「大学については素人」「素人の傲慢」の問題は,大学の中にもあるということだ。 大学破壊の「大学改革」は,素人の<無邪気>から出てくる。 素人の素人たる所以は,自分の見る世界を世界そのものと思うこと。──「世界は自分に見えているものより広く深い」という洞察をもてるためには,広く深い探求の経験が必要になる。 大学人素人は自分が見聞きし考える大学を,大学であると思う。自分の教育・研究活動は,他の者にとっても同様のものと考える。教育・研究活動は専門分野によってとんでもなく違ってくるものだということがわからない。──ひとに言われても,洞察できるだけの経験を持たないので,わからない。実感がないので,「適当に誇張して言っているのだろう」くらいに受け取るのがおちだ。 「教育改革」が時事になるときは,決まってこのようなタイプの人間が旗振りの役につく/つかされる。 理由は,このようなタイプの人間の言うことが,一般者素人にとってわかりやすいからだ。 テレビのニュースショーのコメンテータを例に考えるとよいだろう。一般者素人は,わかりやすい,自分が疎外されないことばを求める。「他者のことばを聴く」ではなく,自分の聴きたいことばを求め,そのようなことば──すなわち「自分のことば」──を聴こうとする。相手がしっかり内容に入っていこうとするものなら,「ああよしてくれ」になる。 |