Up | 複雑系としての「大学教育」 | 作成: 2006-04-15 更新: 2006-04-15 |
国立大学が,経営的に「健全な」企業として立つために,リストラを行う。 リストラは,ニーズに見合った規模縮小,そして業務の合理化による,経費削減のこと。 しかし,この「リストラ」は,「課程再編」という形にねじれて,わけのわからないものになった。 「課程再編」は,業務の形態・内容の変更──特に,扱う商品の変更──を意味する。 大学を一般企業と同一視して「業務の形態・内容の変更」を考えると,ひどいことになる。 大学の扱う商品は「大学教育」だが,これは簡単な商品ではない。 「この商品をきちんと捉える」というスタンスを知らず,きちんと捉える方法を持たず,そして実際きちんと捉えることのできない者が「課程再編」をリードすると,大学はたちまちに破壊される。 ──従来の課程が愚劣な課程に替えられ,大学が幼稚化し,大学であることをやめる。 「大学教育」という商品は,複雑で深い。 この深さに気づく簡単な方法は,つぎのことを知り・理解すること:
学問/科学の歴史と体系 学問/科学の深さを知り,大学教育がその深さの上に立っていることを知る者は,従来課程を粗末には考えない。そして,浅薄な考えでつくられた新課程の愚劣さを見抜くのも容易だ。 ここには,専門性というものがシビアに影響している。単に専門性ではなく「深く良質な専門性」ということが,肝心なのだ。 ただ者に「課程再編」をやらせると,何もわからずに──そして「わかっていない」ことの自覚無しに──無茶苦茶をやる。 大学は,学問/科学から離れるとき,大学であることをやめる。このことが存外理解されていない。
「大学のつもり」と「大学」の区別が,立てられていないのだ。 「法人化=リストラ」を,「大学とは何か」を改めて考究する機会と捉えることが大事だ。 この考究は,複雑系としての国立大学を再認識する行為/行動。 翻って,この行為/行動が伴っていない「課程再編」は,ただの空騒ぎと見なすべきものだ。
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