Up 失敗学を立てる理由 作成: 2006-09-23
更新: 2006-09-23


    人は,問題に出会うと,その問題を独特のものと受け取る。 そして自分を,当事者として独特のものであるというふうに意識する。 出会った問題を「自分に固有の問題」ということにして,自分の背丈/了見で問題を解決しようとする。

    特に,つぎのような思いが起こることはない

      この種の問題は,過去に何度も繰り返されている。
       そして,問題解決のつもりでいつも同じ失敗が繰り返されている。


    失敗体験は,風化し,忘れられる。後から来る者がこれの学習に努めるということはない。この意味で,失敗体験は後世に伝わらない。
    実際,山とある失敗体験を継承するなどということは,できることではない。

    肝心なことは,過去の失敗を語り継ぐとかたくさん知っておくということではなく,つぎのことが概念として体に入っていることである:

      自分の出会う問題は,どれもきっと,過去に何度も繰り返されている。
       そして,問題解決のつもりでいつも同じ失敗が繰り返されている。


    これが体に入っていれば,人は自ずと,問題と自分自身に対して謙虚になる。 独りよがり・夜郎自大な問題解決に進むことに,ブレーキがかかる。 そして,問題解決でいつも繰り返される失敗──自分が警戒しなければならない失敗──がどのようなものか,きちんと/徹底的に調べるというようになる。

    実際,失敗から免れるのは,この形による。
    失敗の知識がもたれている必要はない。「自分は過去の同じ失敗を再び繰り返す者である」という概念のもたれていることが肝心なのだ。

      註 :「温故知新」は,失敗学の格言である。

    そしてこれが機能するために,一方に,過去の失敗事例を保守し参照に供する営為がなければならない。
    この仕事は歴史学が担当してきた。また,「失敗」に特化しようとするときは,「失敗学」が立てられる。