Up 画一化/平均化の阻却 作成: 2006-02-25
更新: 2006-02-25


    組織の個は,画一化/平均化する。これが組織のエントロピー増大の形。
    しかしそうであれば,組織はつぎのようになるはずだ:
      「画一化/平均化を果たして安定し,以降その状態をずっと続ける」

    実際には,組織はより広い世界の動きに翻弄される。 そしてこの翻弄の中で組織の主体性が必要となるとき,画一化/平均化とは逆のモーメントが優勢になる。すなわち個の多様性が顕在化する。

    個の多様性は,新しく生まれたのではなく,潜在していたものだ。
    それはどのように潜在していたのか?
    根本に,DNA の多様性がある。
    これの多様性がもとにあるので,組織の画一化/平均化の流れの中でも多様化の種子が保持されている。 そして雨が降ってきたときに,この種子から一斉に芽が出る。そして多様性の開花。


    「組織のあるべき形」の見方に,相反する2つがある。個の画一化/平均化と個の多様化である。
    多様化をとるのが自由主義。したがって,個の画一化/平均化をとるのはアンチ自由主義になるはずだが,実際,アンチ自由主義の旧共産主義国家のイデオロギーは画一化/平均化をとる。
    組織の事務部門も,アンチ自由主義になる。なぜか? 画一化/平均化の組織の方が,事務処理がしやすいからだ。 ──国の政治で「官僚・役人」が悪者にされるのは,<国のよい形>よりも自分たちの都合を優先していると見なされるからだ。


    さて,そこで国立大学である。
    国立大学は,画一化/平均化の動きに対しては,国立大学の存在理由をもって,これを阻却していかねばならない。 ──国立大学の存在理由は,<自由>の実験 (「創造」) である。この実験は採算事業にならないので,国費で賄う。ゆえに「国立大学」。

    この国立大学にも,画一化/平均化の試みがいろいろな形で現れてくる。
    最近身近で目についたものに,「シラバスのフォーム」がある。 みんな一緒のフォームで書かねばダメだという調子のことを,教育研究委員会が言ってきた。

    「みんな一緒のフォーム」が大学にとっていいことだというイデオロギーが,ここにある。 そして,これがイデオロギーであることに無自覚な者がいる。 この無自覚な者が,大学論的な理由付け無しに,そして「教育研究委員会」の匿名で,「みんな一緒のフォーム」を言い出してくる。
    また,これを「ささいなこと」に見なして,お付き合いして済まそうとする精神風土ができあがってきている。

    大学人は,これらに無条件に寛容であることの危険性を洞察できねばならない。 大学人の責任において,これらとはきちんと対峙/対決していく必要がある。