Up 大学と専門学校の区別 作成: 2006-09-16
更新: 2006-09-16


    大学は,本分を組織的に蔑ろにするとき,「何でもあり」になってしまう。

    大学の本分は,ファンダメンタルを行うことにある (「大学の本分」)。「ファンダメンタルを行う」が大学の要件であり,したがって「ファンダメンタルを行う」から逸脱するとき大学はもはや大学ではない。

    このことをわかりやすく見るために,大学と専門学校の区別をここで考えるとしよう。


    法人化後の国立大学では,大学の講義に対する「何でもあり」の受け取り方が広まった。 例えば,特任教授という枠で社会人を教員にすることは,大学評価の加点要素になる。

    社会人教員の根拠は,専門性である。
    しかし世の中には,ありとあらゆる専門性がある。どの専門性を選べばよいか?
    専門性を選ぶ基準などない。教員選考の任にあたった者が,自分の人脈を使ったり思いつきで候補者を立て,人選する。

    この状況はつぎのことを示す:
      「高度な専門性」が,大学の意味として一般に理解されている。

    ここでは「高度な専門性」のことばがミスリーディングになっている。


    大学は「高度な専門性」によって大学になるのではない。「ファンダメンタルを行う」によって大学になる。
    「ファンダメンタルを行う」という条件によって,一挙に専門性の淘汰が起こる。つまり,従来型大学の研究分野構成に落ち着く。

      従来型大学の研究分野構成は,論理的なものである。この論理が見えない/理解できない者は,それを単に偶然的で古臭いものと見て,「新構想」を出してくる。やっていることはカテゴリー・ミステイクなのだが,当人にはそれがわからない。

    大学における「高度な専門性」とは,「ファンダメンタルを行う高度な専門性」である。
    そして,「高度な専門性」一般を守備領域にするのは,大学ではなく「専門学校」である。
    この区別が立てられないとき,大学と専門学校がごっちゃにされ,大学の講義が「何でもあり」になる。


    学校教員養成課程においても,この傾向が明らかに見てとれる。 すなわち,学校教員養成大学と学校教員養成専門学校の区別が立てられていない。

    現前の状況への適切な対応を教えるのが,学校教員養成専門学校。これに対し,学校教員養成大学は,現前の状況のファンダメンタルと対応行動のファンダメンタルを探求する。「実学・虚学」の言い回しがあるが,これにならえば,前者は実学で後者は虚学ということになる。
    いまは「虚学」が劣勢の時代で,大学教員に学校教育経験者の占める割合を増やすとか,学校教員養成は高校のときから,といった論が「よい論」として受け取られている。


    「虚学=ファンダメンタルの探求」は,現前を相対化する。「現前への適切な対応」が長い時間スパンでどのような意味をもつか,それをとらえる視座を与える。 特に,あるスタイルの優勢・劣勢に繰り返しがあることを教え,現前に振り回される危険を知らせる。

    教育行政は,どうしても「現前に振り回される」構造にはまり,長期的な展望をもてない。したがって,学校教員養成大学が学校教員養成専門学校に変わることをよいことと考えるのが,常だ。
    この「現前に振り回され,長期的な展望をもてない」をチェックする役割をもたされているのが,大学である。そして「ファンダメンタルを行う」という形で,この役割を実現している。

    したがって,学校教員養成大学が自分の方から学校教員養成専門学校への宗旨替えを行ってくるということは,およそ信じられないことなのだ。しかし,これが現に進行している。──「虚学=ファンダメンタルの探求」衰弱の悪循環がここにはある。