Up | 「学生の不利益」論 | 作成: 2006-10-01 更新: 2006-10-01 |
これが「学校運営方針/規則/体制に原因する学生全般の不利益」の問題化であれば,正論である。 しかし,実際は必ずしもそうではない。妙な(スジの通らない)使われ方がしばしばされている。 すなわち,「学生の不利益」は,学生責任,教員責任,大学執行部員責任──総じて,人為的責任──をチャラにするために使われることが多い。 (実際,これをしたいがために「学生の不利益」という名分をつくったという趣が強い。) また,この「学生の不利益」論は,「プライバシー」論とくっつくことにより,組織の隠蔽体質と相性のよいものになる。 ──「学生の不利益」は,プライバシーの問題ということにして,隠蔽しつつ内部処理する。
こういうわけで,「学生の不利益」のことばの使用には警戒を要する。実際,妙な使い方を許せば,大学はモラルハザードに陥る。──このため「学生の不利益」の用法を,ここで改めて論点化する。 教育現場で問題になる「学生の不利益」は,ほとんどの場合,学生が私的なことで自ら招いてしまったものである。 すなわち,怠学,事務手続きの怠り/間違い,その他不注意や身勝手な行動によって,自ら窮地に立つ。 そのような学生のうちのある者は,「それを無かったことにする」という形の救済を大学側に求める。 大学は「窮地に立たせるのは,学生の権利の侵害であり,学生の不利益である」という (妙な) 理屈を立てて,その学生の要求に応ずる。
実際,日本の大学ではいまだに「学生には単位を出してやらねばならない」「学生は卒業させねばならない」の風潮が強い。 「バカ大学」「バカ学生」の揶揄・蔑称がある。 不用意に使ったらたちまちやっつけられてしまうが,論理計算的にはこれを真として示すことができる。 すなわち, 国立大学は,立場上,「バカ大学」をできない。「バカ学生」をつくれない。 成績評価がどうしてもシビアな問題となり,怠学と「学生の不利益」の関係がシビアな問題になる。 (教員養成大学の場合は,「教員免許による人材保証」の社会的責任問題が加わって,なおさらである。) 実際,国立大学評価委員会/文科省が行う「大学評価」に応えて本来最も評価されるべき題目は,「学生には単位を出してやらねばならない」「学生は卒業させねばならない」の精神風土からの脱却であるはずだ。 |