Up ディジタルは,べつに使わなくてもよい 作成: 2008-07-10
更新: 2010-01-07


    授業は,「わからせる」メディアである。
    「わからせる」メディアとして,授業は,相手がその都度「授業内容に<一点集中>する (他のものに注意が向かない・違った方向に行かない)」時間の流れを実現する。
    また,この授業は,主題を論理的プロセス (理論) に構造化し,この論理的プロセスを<書き順>として現していく。

    伝統的な授業メディア「チョークと黒板」は,文字・図を書く行為そのものが,<一点集中>と<書き順>を実現するようになっている。 すなわち,チョークの先端に<一点集中>があり,そして順々に書くしかないことが,<書き順>を現すものになっている。

    コンピュータを使って作成される標準的なディジタル教材は,テクストや図がレイアウトされたページである。 教材提示は,このページの提示になる──コンピュータ画面のディスプレイ。
    これは,<一点集中>と齟齬し,そして<書き順>を示すことが難しい。
    そこには,プロセスが見えない。最後の結果が示されているのみ。

      プロセスを見せようとすれば,ページの提示ではなく,アニメーションの提示になる。 しかし,アニメーションでも,<一点集中>と<書き順>を「チョークと黒板」並みに実現することは難しい。
      実際,「教える」とは「カラダづくり」であり,この中心は「行為するカラダの運動・力を学習者に知らせる」ことである。 アニメーションは,この肝心なところができない。
      また,プロセスをしっかり見せようとすれば段階的表示を細かくすることになるが,段階的表示の細かいディスプレイは,ついていくのが苦痛になる。


    「チョークと黒板」は,テクストや図を時間をかけてつくる。 これは,<一点集中>と<書き順>の実現の要素であるが,短所にもなる。 すなわち,大きな表,精確なグラフ,設計図,写実的な画像といったものの提示ができない。
    この提示のための従来型メディアは紙であったが,ディジタル・ディスプレイはこの部分で最高に有利なものになる。

    そこで良識的には,「チョーク・黒板とディジタルの適材適所──両者の棲み分け」を主張することになる。
    ただし,授業の中での「チョーク・黒板とディジタルの適材適所的共存」は,ひじょうに難しい。 ディジタルを使いだせば,全編ディジタル (「授業」ではなく「プレゼン/講演」) になってしまう。 「適材適所」ではなくて「0か1」になる。( 授業の中でではなく授業単位で使う・使わないを切替え)

    しかし,「ディジタルは授業においてほんとうに必要なものか?」と問われれば,「そうではない」と答えることになる。ディジタルは,べつに使わなくてもよいものである。

    特に,ディジタルが「チョーク・黒板」と相性が悪いということで「チョーク・黒板の駆逐」を考えるのは,本末転倒である (「チョークと黒板」の意味 )。 折り合いを考えねばならないのは,あくまでもディジタルの方である。