Up 進化論 : 要旨 作成: 2021-08-10
更新: 2021-08-10


    ひとを束縛して自由にさせないものは,正義イデオロギーである。
    翻って,正義イデオロギーの洗脳から脱けること──「正義なんて無い」の考えに至ること──が,自由になるということである。

    「正義なんて無い」論を,ニヒリズムと謂う。
    自由の思想は,ニヒリズムである。


    ニヒリズムは,古くからある。
    スタインベックなんかは『エデンの東』で,旧約聖書の神に「正義なんて無い」( "timshel" ) を言わせている。
    実際,論理的な思索は,どうしても「正義なんて無い」に行ってしまう。

    正義を神のことばにする文化だと,「正義なんて無い」は「神なんて無い」になる。
    僧職の者でも,論理的に思索をする者なら,「神なんて無い」をぎりぎりの表現で言うことになる。
     例: ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』中の「大審問官」
    臨済「你若求佛即被佛魔攝 不如無事」(註1)
    親鸞「念仏をとりて信じたてまつらんともまた捨てんとも面々の御はからいなり」(註2)

    しかし,ニヒリズムは,論理的思索のレベルにとどまっているうちは,弱い。
    論理的思索のレベルでこれを保てるのは,ニーチェの「超人」ということになる。
    ニヒリズムが人のものになるには,科学が要る。


    「正義なんて無い」を導く科学──それは進化論である。
    ダーウィンの『種の起源』の出版が 1859年だから,それが登場するまでにずいぶんと時間がかかったことになる。
    哲学者なんかはずいぶんと思索したはずなのに,ダーウィン以前に「進化」のアイデアに至る者はいなかった。

    「自然選択」は,言われて見ればそれしかないと合点する。
    しかしこれを「化学反応は,時間をかけると,人間を現す」という言い方に換えてやると,やはり並の人間の考えではないということがわかる。


    ニヒリズムは,これを支える科学として進化論を持つ。
    では,進化論でニヒリズムに結着がついたかというと,話はそんなに簡単ではない。
    「このわたしは何か」の問題が残っているからである。


    註1:『臨済録』「示衆」より
      世出世諸法、皆 無 自性、亦無 生性。
      但有 空名、名字 亦 空。
      你 秖麼 認 他閑名 爲 實。
      大錯了也。
      設有、皆是 變之境。
      有箇 菩提、涅槃、解脱、三身、境智、菩薩、佛
      你 向 變國土中、覓 什麼物。
      乃至 三乘十二分教、皆是 拭不淨故紙。
      佛 是 幻化身、祖 是 老比丘。
      你 還是 娘生 已否。
      你 若 求佛、即 被 佛魔 攝
      你 若 求祖、即 被 祖魔 縛。
      你 若 有求 皆苦。
      不如 無事

      世[世俗]・出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性無し。
      但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり。
      你[なんじ]は祇麼[ひたす]ら他[か]の閑名を認めて実と為す。
      大いに錯了[あやまれり]。
      設[たと]い有るも、皆な是れ依変の境なり。
      菩提依、涅槃依、解脱依、三身依、境智依、菩薩依、仏依有り。
      汝は依変国土の中に向いて、什麼[なに]物をか覓[もと]む。
      乃至[ないし] 三教十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙(註)なり。
      仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。
      汝は還[は]た是れ娘生なりや。
      汝若し仏を求むれば、仏魔に摂せられん。
      汝若し祖を求むれば、祖魔に縛せられん。
      汝若し求むること有れば、皆な苦なり。
      無事に如かず。
       註 :「トイレットペーパー」


    註2:『歎異抄』第2条 (1)
      おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
      しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
      もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
      親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
      念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
      総じてもつて存知せざるなり
      たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
      そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。
      いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
      弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。
      仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。
      善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
      法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。
      詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし
      このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。