Up 数学教育学入門 作成: 2015-11-14
更新: 2015-11-14


    (1) モタモタ
    『数学教育学とは何か?』に来るまで,ずいぶんモタモタしてしまった。
    実際,「数学教育学専門」のキャリアの長い時間を過ごして届いたところが,これである。
    しかもこれは,「マニフェスト」に過ぎない。
    入口に到達したところで,キャリア終了である。

    この頃授業というものが少しわかってきた」は,教員職を退く者がたいてい口にすることばであるが,これと同じである。
    入口に到達したところで,キャリア終了である。


    (2) テクスト
    「モタモタしてしまった」には,些事にかまけて大事を先送りにしてきたという面もあるが,では大事先決でやってたらモタモタにはならなかったかというと,そうでもない。
    物事は,アタマでわかるのではない。
    ジタバタを重ねてできたカラダが,わかるのである。
    「あの頃に戻れたら」なんてのはウソである。
    同じジタバタを繰り返すことになる。
    <わかる>とはそういうものである。

    この『数学教育学とは何か?』は,数学教育学の道に入った (厳密には「入ってしまった」) 学生を特段の読者に想定してつくったものである。
    入門者である彼らが「数学教育学とは何か?」を考えるとき,どんな内容・格好のものであれ対照・反照するものはあった方が便利である。
    「<わかる>とはそういうものである」と矛盾するが,わたしのときには『数学教育学とは何か?』が無かったので,こう思うのである。


    (3) 修行
    本テクストは,数学教育学が科学である形を,数学教育生態学とした。
    翻って,「数学教育学とは何か?」のテーマでモタモタしたのは,対象世界が生態系だったからということになる。

    何の分野でも,入門者にとって,世界はただのノイズである。
    修行は,このノイズに輪郭・形を見るようになる。
    修行の多さの分だけ,見えるものが多くなり,深くなる。
    修行の量は,省略することができない。

    数学は,若いときに成果を出せる分野である。
    理由は,これが規範学だからである。
    言い換えると,形の学だからである。
    形からスタートする。

    「形がわかる」は,「形を導いてきた卑近との行ったり来たりができる」である。
    だから,「数学者」は「数学がわかる者」とは違う。
    「数学者」は,「数学ができる者」である。
    「わかる」抜きの「できる」がなぜ可能かと言うと,形はそれだけでゲームできる面があるからである。
    小学生で将棋や碁の強い者がいるのと,同じである。

      「数学者」は,だいたいが授業が下手である。
      「わかる」をわかっていない者だからである。
      授業は,相手を「わかる」にする作業である。
      「わかる」がわからないで授業はできない──道理である。

    生態学は,入門者はノイズからスタートする。
    そして,修行がノイズを形にしていく。
    しかしこの修行が,自由にならないカラダが相手なので,えらく時間がかかる。
    政治や芸事は,一般の職業の退役年齢が「若輩」になるが,こういうことである。

    一方,修行は信頼できるものである。
    職人は,10年修行すればいちおう格好がつくことになっている。
    しかしこれを裏返して言えば,10年修行を続けられない者は,職人にはなれないということである。
    数学教育学の修行は,「ただただ経験値を積む」と割切るものである。


    (4) 免疫
    「経験値」には,「免疫」の意味がある。
    「数学教育」の世界に棲むことは,この世界の感染症と付き合うことである。

    「数学教育」は,ムーブメントを新陳代謝にして自身を持続する系である。
    一つのムーブメントに入ることは,そのムーブメントのスローガンへの感染である。

    感染して免疫をつける。
    一度感染したら,つぎは感染し難くなる。
    警戒すべきは,最初の感染でそのまま慢性に進むことである。


    (5) 数学教育学のやり方
    それにしても,「数学教育学専門」のキャリアを過ごして届いたところが『数学教育学とは何か?』のマニフェストだというのは,いかにもざまがない。
    そこで,こうならないよう,学生読者には,数学教育学のやり方を提案してみることにする。

    学問の要諦は,「専攻は何でもよい」である。
    そこで,生態系の中の小生態系から一つを選び,これを専攻する。
    この場合,何を選ぶかで,必要経験値の大小が違ってくる。

    例えば,わたしは「数学的○○」が主題にしやすいので,これをよく主題にする。
    なぜ主題にしやすいかというと,「数学的考え方」の尻尾と,「数学的問題解決」のまるまんまと,「数学的リテラシー」の頭を,経験することができたからである。
    これの生態を,観察することができた。
    こうして,「このくらいは言ってもいいだろう」というものをもつことになる。
    そして,テクストにしたりすることになる。
    『「数学的リテラシー」とはどういう問題か?』

    またわたしは,学校数学の授業に係わる学校教員の生態を,いろいろな位相で観察することができた。
    実際,このことでは,わたしはいつも運に恵まれた者であった。
    こうして,「このくらいは言ってもいいだろう」というものをもつことになる。
    そして,テクストにしたりすることになる。
    「学校数学教員」論

    数学教育学は,「自分の経験に基づくとき,このくらいは言ってもいいだろう」が基本的な形になる。
    「経験」が,この場合の「地に足をつける」の「地」である。
    数学教育学が科学として進展すれば,文献もでき,「文献研究」という研究の形もできてくるが,基本が自分の経験であることは変わらない。
    そこで,数学教育学への自分のアプローチを考えることは,自分の境遇での「自分の経験に基づくとき,このくらいは言ってもいいだろう」にはどんなものがあるかを考えることである。


    (6) 「数学教育学専攻」の生態
    数学教育学専攻学生は,「数学教育学専攻」の生態を研究できるよい立場である。
    実際,自分の生態は,そのまま「数学教育学専攻」生態系の要素である。
    「指導教員」も,「数学教育学専攻」生態系の要素である。
    「学会の大会」も,「数学教育学専攻」生態系の重要な要素である。
    等々


    (7) 学生の利
    翻って,自分がいまはまだ何もわかっていないものであるところの「授業・教師・生徒」を主題にするのは,数学教育学としては,下手をするだけである。
    どの立場にも,得手不得手,有利不利がある。
    学生には学生ならでの,得手不得手,有利不利がある。
    自分の得手・有利を定めて,数学教育学をする。

    このように言うのは,わたしの「自分の経験に基づくとき,このくらいは言ってもいいだろう」から言うのである。
    わたしは,学生のときには「授業・教師・生徒」を主題にしなかった。
    数学の方から数学教育の方に移ったという経緯もあり,数学教育のまったくの門外漢として「授業・教師・生徒」など主題にできるはずもなかった。
    しかし,これは悪いことではなかった。
    いまわたしは「生態系」とか「複雑系」のことばを用いるが,このことばが無かった(?) そのときのわたしのことばは,「相対的」であった。
    この「相対的」の立場をつくるのに,文化人類学とか,言語学,反合理主義哲学,数学哲学等をずいぶん非効率にやり,無理筋の論文 (「なんでこれが数学教育の論文か?」) をずいぶん不器用につくったりしたのだが,これが以降,自分のベースとしてずっと役に立つことになる。

    本テクストは,「生業」と「探求」の二叉を,全体構成の中ではずいぶん不釣り合いに強調して論じてきたが,いま自分を振り返ると,「探求」のベースを学生時代にせっせとつくっていたことになる。
    本テクストでは「探求」は数学教育学であるから,数学教育学のベースを学生時代にせっせとつくっていたことになる。

    繰り返すが,学生には学生ならでの,得手不得手,有利不利がある。
    自分の得手・有利を定めて数学教育学をすること (そして「数学教育学」をすること),言えば当たり前だが,これが肝要である。