Up テクスト「現成公案」のモチーフ 作成: 2010-01-14
更新: 2017-10-08


    「現成公案」のモチーフは,「現(うつつ) が理だよ」である。
    ただ,この中には「有時」の存在論が潜んでいて,この存在論から特に「<あの世>とか<生まれ変わる>なんて無いよ」となる。


    1.現(うつつ) が理だよ
    テクスト「現成公案」は,「修行」とは何をすることか?「悟り」とは何を悟ることか? を,学生に教えようとするものである。 そして,<現成>がわかることが「悟る」だよ,と教える。

    「現成」の意味は,「理は現(うつつ)にある」である ( 「現成公案」の意味)。 では,理が現にあるとはどういうことか?

    修行とは理の探求のことであり,悟りとは理を得ることである。 西欧合理主義の発想だと,この探求は形而上学ということになり,理は最終的にことばになる。 すなわち,「法則」のように述べられる。
    このように発想するのは,西欧合理主義に限らない。 思考する者の一般的習性である。 思考はことばを使う。ことばを紡ぐことをやっていると,形而上学になってしまい,理はことばに写されると思ってしまうのである。
    特に,アカデミズムをやると,こうなる。

    「現成公案」は,理とはそんなものではないよ,と言う。
    「遠い/高い/深いところにある理」とか「理を述べることば」みたいに「理」を発想している限り,「理」はわからないよ,そんな修行は無駄だよ,と言っている。
    では,理とはどんなものか?
    「現成公案」は,現(うつつ)が理だよ,と言う。

    理は,現れるというふうに存在するのみである。
    何に現れるのか?
    現(うつつ)にである。
    神秘的な現れ,神秘的な存在など,あると思ってはならない。
    ──これが,「現成公案」のモチーフである。

    このモチーフは,道元のオリジナルではない。 仏教のもともとの思想である。 道元は,仏教のもともとの思想を述べているだけである。


    2.<あの世>とか<生まれ変わる>なんて無いよ
    道元の存在論は「有時」である。 ──「有る時は‥‥‥」を,別々の有にして,今に並べる。 これに人称の消去を併せる。( 「有時」)
    この操作で,仏と自分が一つになる。
    実際,仏と自分を一つにすることが,「有時」論の目論見である。

    この存在論では,生と死を連ねる人称は存在しないことになる。
    「Aが生きて死ぬ」の「A」は存在しないというわけである。
    ただ,有る時の生と有る時の死があるばかりである。
     
    たき木,はひ(灰)となる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。
    しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。 前後ありといへども,前後際斷せり。
    灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。
    《かのたき木,はひとなりぬるのち,さらに薪とならざる》がごとく,《人のしぬるのち,さらに生とならず》。
    しかあるを,生の死になるといはざるは,佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。
    死の生にならざる,法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。
    生も一時のくらゐなり,死も一時のくらゐなり
    たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず,春の夏となるといはぬなり。

    <あの世>とか<生まれ変わる>なんて無いよ」は,葬式仏教に慣らされている目には仏教の否定のように映るが,仏教はもともと,<あの世><生まれ変わる>の類の概念とは無縁のものである。
    実際,仏教とはこれだけのものである:
    五蘊皆空を知ることが,一切苦役から自由になることだよ」というわけである。
    <あの世>とか<生まれ変わる>があるよ」は,衆生救済のための方便という位置づけになる。