Up 色即是空空即是色」の存在論 作成: 2018-04-05
更新: 2018-04-05


    仏教の核は,「色即是空空即是色」の存在論である。
    色即是空空即是色」の意味は,「存在は有かつ空」である。

    「有かつ空」は, 「非有かつ非空」である。
    なぜなら,「有」は「有かつ空」ではないから,「有かつ空」であるものは非有である。 「空」は「有かつ空」ではないから,「有かつ空」であるものは非空である。

    「有かつ空・非有かつ非空」は,観念論ではなく,物理である。
    物理的存在は,<個ー系>の階層構造をもつ。 ( 『「系-個」存在論』)
    この構造は,《個を現せば系が消え,系を現せば個が消える》という構造である。
    例えば,波。
    これは,《粒子を現せば波が消え,波を現せば粒子が消える》になる。
    そして,万物がこのようである。


    仏教者は,「色即是空空即是色」を理解できなかった。
    「階層」の考えを持たなかったので,有と空が矛盾関係になった。
    そして,矛盾を無理矢理飲み込もうとする。

    矛盾は,飲み込めない。
    実際には,一方を真とし他方を偽とすることになる。
    仏教は,空を主にして有を幻想として扱うことになる。
    これを「空観」という。

      道元の「有時」(『正法眼蔵』) は,有を空と整合させようとした哲学的探求である。 ──結果としては,荒唐無稽な論となった。( 『道元 :「現成公案」「有時」』)

    さらに,これに「方便」論を重ねる一派も現れる。
    即ち,空と有を「衆生は空を解できないから,方便として有を説く」のように使い分ける。
    識者には空,衆生には有,というわけである。


    「空観」は,有の無視である。
    仏教は,空を観ずれば有から脱けられると考えた。
    これは,「重力の法則を観ずれば重力から脱けられる」の類の,おっちょこちょいの考えである。
    頭は空を観じても,体は有に属したままなのである。
    実際,出家とは,「頭は空を観じ,体は在家者 (生産者) に寄生」のことである。

    ブッダは,<救い>を<気持ちが少しラクになる>程度に措いた。
    自分の苦の理由がわかれば,苦を抱えることに少し我慢ができるようになる──少しラクになる,という程度である。
    しかし,後から来る者は,これを<絶対的救い>にしなければと思う者になる。
    そして「あの世」とかのフィクションをつくっていくことになるわけである──大乗経典。