Up | 評価委員会/文科省による「評価」の実態 | 作成: 2005-12-26 更新: 2005-12-26 |
では,このコストに対して返ってくる「評価」は,そもそもどのようなものなのか? 先ず,各国立大学法人から出される「報告」とこれに対する評価委員会/文科省の「評価」は,定型 (すべての国立大学法人に対し共通) であり,つぎのようになっている:
北海道教育大学 (平成16事業年度) の場合は:
さて,この「評価」では,サイズからもうかがえるように,内容に踏み込まねば評価できないような事がらは,評価できない。 評価対象になり得るのは数値化されるものであり,それはせいぜい財務である。 「法人化」の課題は,財政改革の一環として起こった。"財務に関して現場は容易に従来の「ぬるま湯」から脱しようとしないだろうから,財務の評価を導入してリストラを進めさせる。" ──この考えは,合理性をもつ。 しかし,「評価」は,財務の評価にとどまらないで,教育・研究の体制/方法/企画までも評価の対象にした。しかしそんなことはできるはずもなく,実際,評価は表面的/トピックス的評価になった。 そこで何が起こることになったか? 教育・研究の体制/方法/企画について確固とした信念のない大学は,「評価」が行う表面的/トピックス的評価にキャッチされ得るような形で,教育・研究の体制/方法/企画をいじり始めた。 「報告」のために何を標題化するかというときに手本とされたものは: 教育・研究は,構造的に深く,見えないコストで支えられ,そして長い時間スパンで考えねばならないものなので,<表面的/トピックス的評価にキャッチされ得る>ような形でいじられると,めちゃくちゃになってしまう。 しかも,<いじる>主体が,しっかり用意されてしまった。「強化された学長のリーダーシップ」だ。 評価委員会/文科省に対しては,「余計なことをやってくれたものだ」と,つくづく思う。 評価委員会/文科省は,どうして教育・研究の体制/方法/企画にまで口出しするという<傲慢>をやったのか。──この<傲慢>は彼らの<無知>の裏返し。 わたしは,教育・研究のプロフェッショナルとして,彼らの<傲慢/無知>の構造がよくわかる。 それは,<一時の流行にのる (視野狭窄)>というものだ。これは,油断するとついつい陥る。 そもそも,教育・研究は,「教授会」を「強化された学長のリーダーシップ」に替えてうまくいくようなものではない。──少なくとも,「強化された」という風情のリーダーシップに導かれるものではない。 実際,北海道教育大学において「強化された学長のリーダーシップ」「スリムでシンプルな組織体制」「機動性、活性化が図られた大学運営」がもたらしたものは何だったか? (ろくでもないものならすぐ挙げられる。──学長任期の規定を勝手に変えて学長に居座る,わけのわからない (教科破壊の) 札幌校の新課程,等々。) 参考 |