Up | おわりに | 作成: 2014-03-22 更新: 2014-03-22 |
「学校数学の勉強は何のため?」 の論考に着手することに決めたのは,5年前の 2009年である。 現職の定年退職の年 (2014年度) を近い先に臨む歳になり,定年退職の年から逆算して「このくらい時間をかけることになるだろう」というわけで, 2009年に着手することにした。 「時間をかける」の意味は,「チンタラやる」である。 この手の内容は,チンタラやらねば間違うのである。 即ち,「思いつき」をやってしまうわけである。 「チンタラ」の方法として用いたのが,《毎年学会発表する》である。 「これを縛りにしてやっていけば,最後の年には,論考が何とか形になっているだろう」の見込み──まったく根拠のない見込み──で始めた。 ここまでの発表は,つぎのようになっている:
2010 : 学校数学出口論主流の意味 2011 : 学校数学「無用の用」論の方法 2012 : 学校数学「何でもあり」論の方法 2013 : 「学校数学=形式陶冶」論の方法 「学校数学の勉強は何のため?」 は,ずっと自分のテーマにしてきたものであり,そして論考を先送りしてきたものである。 実際,この先送りは正解であった。 若年には無理な論考であることが,いまの年齢になるとよくわかる。 このテーマの論考は,存在論の論考になる。 このテーマの困難の本質は,存在論の困難である。 数学教育の概論本には,「学校数学の勉強は何のため?」の答えが箇条書きで述べられている。 しかし,それは目的論である。 つぎの二つは,違うものである:
目的論をつくるとき,動員される知識は規範的知識である。 存在論をつくるとき,動員される知識は経験的知識である。 目的論は若輩もこれを自分の領分にできるが,存在論へは及べない。 若年を退ける断定的な物言いで恐縮だが,わたしの経験がこれを言わせるのである。 存在論とは何か? 最も単純な存在論として, 「唯物論」というのがある。 唯物論では,「このコーヒーカップ」という存在が立つ。 しかし,当のコーヒーカップにしてみれば,自分は「コーヒーカップ」であるわけではない。 時間の大部分はコーヒーとは無縁である。 そもそも「コーヒーカップ」は「コーヒー」を対象化しない。 ただ,世に現れ,時間の中に存在しつつ,劣化し,破棄され,壊れ,世から無くなる,という「ライフ」を過ごす。 当のコーヒーカップの存在論の内容になるものは,この「ライフ」の方である。 そしてこの「ライフ」を捉えようとすると,「コーヒーカップ」を立てる以前に,存在の同一性も無くなってしまう。 存在論とは,この捉えようのない事態を大真面目に論じるというものである。 このような面倒くさい存在論は,数学教育の話とは無縁であるように思われるだろう。 しかし,「学校数学の勉強は何のため?」を生徒からの問いとし,これに答えをつくろとする論考は,存在論になるのみなのである。 即ち,「数学の授業を受けるこの生徒」は,上に述べた「このコーヒーカップ」と同じことになる。 「数学」「授業」「生徒」みたいに存在を立てるたびに,その存在の同一性が無くなってしまうのである。 こうして,「学校数学の勉強は何のため?」の論考は,存在の同一性が立たない存在論に至ることになった。 この存在論の「存在」は,イメージとして「消滅する流れ・変化」である。 本論考は,この「存在」の表現に,「運」のことばを用いることにした。 「運動」の「運」のイメージと「授業の当たり・外れ」の「運」を合わせることができて,都合がよいと考えたためである。
「学校数学の勉強は何のため?」への答えは,現時点でつぎのようになっている: 学会発表は今年 (2014年) が最後である。 それにどう間に合うか,合わないか ‥‥ (2014-03-22 現在) |