Up | 全体論考の中の,本論考の位置 | 作成: 2013-10-10 更新: 2014-04-18 |
これを以て,全体論考はつぎの構成になる: 1.「学校数学は何のため?」 全体論考は,「学校数学」の意味の論考を,生徒からの「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代える。 この「学校数学は何のため?」は,つぎがこれの言い換えになるものである:
(「自分は,現前の学校数学から,何を得ることになるのか?」)
学校数学は,その目的に拠って立つものである。 この目的を示すことが,「何のため?」に答えることである。」 実際,学校数学は,いま在る者にとって,所与である。 目的を以て学校数学を立てこれを与える者は,いま在る者の中にいない。 所与の意味は,それが現実に何であるかである。(「現象学」) しかも,学校数学は一つの生態系として現前している。 そして,生態系は目的に拠って立つものでない。 ──このことを,『「学校数学=生態系」論』で論じた。 「学校数学は何のため?」すなわち「現前の学校数学からは,何が得られるか?」の答えは,多様なものになる。 この多様性の捉えを,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』で行った。 多様性を<多様性の構造>から導くというのが,『「学校数学は何のため?」の答えの構造』の趣旨である。 2.「学校数学=形式陶冶」 現前は,「誰にどんな得」の多様性を現す。 しかし,学校教育の根本は,「勉強する者すべてにどんな得」である。 そして,組織の論理が立てる「得」を一方に見つつ,この根本を見据えるとき,「学校数学は「形式陶冶」として立つのみ」となる。 ( 『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』) こうして全体論考は,ここより,「学校数学=形式陶冶」の立論に進む。 学校数学の歴史に,「形式陶冶説批判」がある。 「形式陶冶説批判」の「形式陶冶」は,全体論考が立論しようとする「学校数学=形式陶冶」の「形式陶冶」ではない。 よって,「学校数学=形式陶冶」の立論は,全体論考の謂う「形式陶冶」の定義から始められる。 「形式陶冶説批判」の謂う「形式陶冶」は,「作用主陶冶」である。 ──「形式陶冶説批判」は,「形式陶冶」を「作用主陶冶」のことにした。 ( 『「形式陶冶説批判」とは何であったのか? 』)
また,学校教育が「○○することができる」の言い回しで出口論をつくることも,ふつうのことである。 そしてこの学校教育は,「○○する力の陶冶」を自身の意味にする。 「○○する力が○○する」は,「作用主が作用する」である。 「○○する力の陶冶」は,「作用主陶冶」である。 「形式陶冶説批判」は,「形式陶冶」を「作用主陶冶」に解釈し,そして「作用主陶冶」が形而上学であることと指摘することを以て,「形式陶冶」批判とした。 全体論考は,「作用主陶冶」を「形式陶冶」とは別物であるとし,「形式陶冶」の保持を立場にする。 そこで,全体論考は,ここから「形式」の論考に進む。 すなわち,「形式」とは何か?の論考に進む。 3.「形式」とは? 全体論考が立てる「形式陶冶」は,「形式」が「外なる形式」である。 「形式陶冶」は,「外なる形式が自分に届くカラダづくり」の意味になる。 特に,「作用主陶冶」とは明確に区別される。 翻って,「形式」を「内なる形式」で考えることは,「形式陶冶」を「作用主陶冶」と同じにすることである。 実際,「内なる形式」は「作用主」と区別のつかないものになる。 西洋思想・哲学は,「内なるもの」を立てることが主流であり,「形式陶冶」の考えもこの流れの中にあった。 よって,「形式陶冶説批判」が「形式陶冶」を「作用主陶冶」のことにしてこれを批判したのも,あながち外れてはいないのである。 「形式」の存在論には,「存在の様相」の論が続く。 これは,「形式」の記述論になる:
「形式」の記述はどのようなものになるか?》 「形式」の存在措定が内容になる以上のことを,『「学校数学=形式陶冶」の「形式」とは?』で論考した。 4.「形式陶冶」の2類型とこれの含蓄 全体論考は「形式」のことばに対し,つぎの2つの意味を対立させる:
さて,「形式陶冶」を立てることは,「学校数学を勉強する」と「形式を得る」の間の因果律を立てることである。 このことには,「学校数学」と「形式」の同定が,先決問題として含まれる。 しかし,「学校数学」を定めることは,「形式」を不明として保留にすることになる。 また,「形式」を定めることは,「学校数学」を不明として保留にすることになる。 ──実際,「学校数学」と「形式」の両方がともに立つとは,因果律がわかっているということである。 しかし,形式陶冶の形式陶冶たる所以は,この因果律がわからないことにある。 こうして,「学校数学=形式陶冶」の理論構築は,「学校数学=形式陶冶」の意味の2通りと,「学校数学」と「形式」のどちらを先決にするかの2通りの組み合わせとして,つぎの4通りになる:
現前の学校数学出口論は,「内-形」(「形式=作用主」の立場,かつ「形式」を先決) である。 「外-数」は,「学校数学」を数学に定める。 「形式」として,自分に届くようになる「外なる形式」を挙げる。 「数学 → 形式」の因果律は,不可知として棚上げにする。 「内-形」は,「形式」を「生きて働く力」に定める。 「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。 「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げにする。 「外-数」は,「形式」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。 「内-形」は,「学校数学」の「何でもあり」論に陥る/陥りやすい。 また,「内-形」による学校数学の主導は,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) の棚上げが「学校現場への丸投げ」になるので,必然的に「学力低下」の社会問題を招く。 「外-数」と「内-形」の比較は,「学校数学」を捉える重要な視点を導くことになる。 この論考を,『学校数学は「形式陶冶」として立つのみ』で行った。 また,特に「外-数」の方については で,そして「内-形」の方については で,それぞれさらに論考を進めた。 5.「授業」は出遭いの運──自分の運で成長することを考える (本論考) 全体論考はここまで,「学校数学は何のため?」の問いを,生徒からの「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いに画定し,そして「得は,<形式>」「得は,形式が届くカラダ」「その形式とは,‥‥」を答えにした。 この答えは,まだ,「自分の学校数学の勉強は,自分にどんな得がある?」の問いを収めるものにはなっていない。 実際,この答えに対しては,「自分の学校数学の勉強とこれの得は,他と比べてどんな?」「自分の場合をどう受けとめたらよいか?」の問いが続くことになる。 全体論考は,この問いを収めることを以て閉じられることになる。 これを,本論考が行う。 「授業の差異/格差」は,授業を包摂する大きな複雑系の均衡相である。 「差異/格差」は,系の均衡相として見るものであり,「優劣」として見るものではない。 差異/格差を互いの間に見ていくことになる個は,「特個性」として見るところとなり,これは「個の多様性」を立てるということである。 ここで,「個の多様性」は,系の<一律化>モーメントに抗して均衡する「多様性」である。 実際,「一律」と表裏であるからこそ,授業の多様性に拘わらず「授業」の対象化が成るわけである。 「自分の場合」は,特定の個との出遭いである。 そして,特定の個とのこの出遭いは,「運」である。 その個は,「特個性」として「個の多様性」で見るものであり,「優劣」で見るものではない。 これは,「運」は「幸運・不運」ではない,ということである。 「自分の場合を,どう受けとめたらよいか?」の問いに対する答えを,本論考は「自分の場合で,ベストに成長することを考えればよい」にする。 こうして,「学校数学は何のため?」は,最後は個の主体性 (<主体の計らい>) に返される。 これが,本論考の方法である。 |